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東京高等裁判所 昭和41年(う)2086号 判決 1967年1月27日

被告人 甲

主文

本件各控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は検察官塚谷悟提出にかかる検察官河井信太郎作成名義の控訴趣意書及び弁護人渡辺良夫、同四位直毅共同作成の控訴趣意書記載のとおりであり、検察官の控訴趣意に対する答弁は右弁護人ら共同作成の答弁書記載のとおりであるからこれを引用し、これに対し当裁判所は次のように判断する。

弁護人らの控訴の趣意第一点の一について

所論は原判決は、弁護人らの精神障害の主張に対する判断として、「弁護人らは被告人が強度の精神病質者であつて、本件各犯行当時、是非善悪を弁識し、その弁識に従つて行為する能力を著しく減退しており、従つて心神耗弱の状態にあつた旨主張するので検討する」となし、被告人が精神病質者であると弁護人らが主張したことを前提として判断したが、弁護人らは、関特別弁護人の弁論要旨二二頁に記載のごとく、第一には鑑定人三浦岱栄作成の鑑定書(以下単に三浦鑑定という)に従い、被告人は類破瓜病なる精神病に罹患していたと主張したのであり、精神病質の主張は二次的なものに過ぎないのであるから、原判決が単に精神病質についてだけ判断し、精神病について判断しなかつたのは、精神病であるとの弁護人らの主張に対する判断を遺脱したものであり、訴訟手続に違反すると主張する。

よつて案ずるに、関特別弁護人が引用する三浦鑑定をみるに、同鑑定は、被告人が精神分裂病の周辺群である類破瓜病に罹患していたと判定したが、類破瓜病が心神喪失に該当するとは必ずしも判断してはおらず、むしろ、責任能力には一定の制限が加えられるのが至当であるとの推測を試みているところからみれば、心神喪失には該当しないと判断しているものと解せられ、従つて関特別弁護人の主張も右鑑定の範囲にとどまるものというべく、結局原判決が、心神耗弱につき判断したことは、弁護人らからの被告人の精神障害についての全主張にわたり判断を尽していると認められるばかりでなく、かりに弁護人らから心神喪失の主張がなされており、原判決がこの点についての判断を遺脱したとするも、すでに心神耗弱さえ認められないとしている以上、より高度の精神障害たる心神喪失の認められないことは当然であるから、心神耗弱の認められないことを判断したことは、ひいては心神喪失の主張をも排斥したことに帰し、これを所論のように心神喪失についての判断遺脱の違法を犯すものとはいえない。論旨は理由がない。

同第一点の二について

所論は要するに、被告人は、本件各犯行当時、類破瓜病なる精神病に罹患していたと主張するのである。

よつて案ずるに、右所論は、本件各犯行当時における被告人の精神状態は、精神分裂病の周辺群である類破瓜病に罹患していたとする三浦鑑定に依拠するものであるが、原審においては、右三浦鑑定のほかに、鑑定人秋元波留夫による鑑定(以下単に秋元鑑定という)が施行され、同鑑定においては、被告人は本件各犯行当時、無情性、自閉性、粘着性、偏執性、自己顕示欲性、嗜虐性等の傾向を主徴とする精神病質者であつたと判定されたのである。

しかして右両鑑定は、一方がともかく精神病であるとするに対し、他方は精神病質であるとしていて、その間判定に大きな隔りがあるようにみれるが、内容についてみれば差異は案外に小さくて、截然と一をとり、他を捨てねばならぬほどに択一的なものではなく、結局は被告人の異常人格という一つの対象を、精神医学的にいかに把握するかの分類方法が、多くを占めていると考えられるのであり(当審鑑定人兼証人戸川行男の供述参照)、すでに学説においても、精神分裂病の周辺群の一つである類破瓜病は、これを精神分裂病には入れず、「分裂病質なる精神病質の概念に包括させようとする考え方もあるに徴し、また三浦鑑定においても、被告人が類破瓜病なる精神病に罹患していたとしながらも、責任能力は全面的にはこれを否定せず、一定の制限が加えられるのが至当であるとするに過ぎないことからも、この間の消息の一端が窺えるというべきである。

しかして限定責任能力者すなわち心神耗弱者とみるかどうかは、精神障害に対する法律的判断であり、裁判所が刑法の社会規範的機能に則り判定すべき事項であるが、三浦鑑定が「被告人の犯罪が単に年下の少年に対する暴行、傷害にとどまらず、更に窃盗及び脅迫に拡大しており、その上警察を愚弄する如き投書を行つている等の点、普通の心理状態をもつては到底理解し難い処であり、しかも最初の間は自分は絶対に捕まらないと確信していたなど、単なる精神病質的者の域を超えて、ある種の精神病によつてその性格変化が起つたものであると考えるのでなければ、到底説明がつかないと思われる」とするについては、にわかに承服し難い点が存するように思われる。すなわち被害者の家族らに対する脅迫行為及び警察に対する脅迫行為及び警察に対する揶揄的投書は、捜査を混迷させることのほか、これによりひそかな自己満足に浸つていたものであつて、やはり被告人の生来の嗜虐性及び自己顕示欲性等の一つの現れであるとみることができるのであり、また被告人が絶対に捕まらないと確信していたことについても、ほかの通り魔事件や当時被告人が読んだ「驚異物語」においても、通り魔が捕まらなかつたことのほか、被告人は予め犯行の場所、時間、方法等につき綿密な計画をたてて実行に移し、現場には証拠を残さず、文字どおり通り魔の如く引き揚げていたのであるから、被告人が捕まらないと確信したについては、相応の理由があつたといえるのであり、従つて前記所為等は、必ずしもこれを精神病によつて性格変化が起つたものの仕業や心理とみなければ、理解できないほど、異常なものであるとは考えられない。

被告人は長い間苦しんだ高校の入試が終つてホツとすると同時に無性に暴れてみたくなり且つ自分の勇気を試す気持から、年下の男児を選んで傷つけることを思い立つて最初の犯行に及んだのであり、またそれ以後は、右に加えて、そのころ読んだ「驚異物語」という殺人鬼を取扱つた怪奇小説(同殺人鬼は丸裸の夜の女を胸から下腹部にかけ切り裂いているが、被告人は陰部を切り裂いたと想像した)に刺戟されたのと、世間に対する不満も手伝つて次々と幼少男児の性器を狙つて傷害を加え、社会の反響を試そうとしたものであることが認められ(被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書参照)、いずれも動機不明の犯行であるということはできない。ただ対象が男児の性器であつたことについては精神医学的、心理学的解明は容易ではないようであるが、いわゆる性的犯罪とみるのは妥当でなく、また男児に向けられたことにも特別の意義はなく、ただ性器に対する傷害として、一層社会の注目をひくことを被告人が期待したとみるのが相当と思料される(前記戸川行男の供述参照)。また被告人には、塩分摂取の排斥や西洋好みの習癖等衒奇的とさえ思われるような思考及び行動様式がみられるけれども、これらとても、偏執性、粘着性の異常性格の発現として理解し得ないものではない。

なお弁護人は、秋元鑑定は被告人にみられる自閉的特質を、思春期における独立心の現れであると観察した。しかし思春期における人格の変化の特質として、一面においては独立的、自閉的になると同時に、他面においては外に向つて拡がりをみせ、友人を求める傾向を示すものであるから、秋元鑑定が自閉的性格のみをとらえてこれを直ちに思春期における独立心の現れに結びつけて説明したのは、片面的に過ぎ、外に向つて孤立化した被告人の社会的態度の歪みに対する解明には触れておらず、瑕疵あるものであるというのである。

しかしながら、秋元鑑定と同鑑定人の原審公判廷における証言とを総合して考察すれば、同鑑定は、被告人は小学校高学年ころから漸進して高校入学ころには、親しい友人はなくなつてしまつたのであるが、これを淋しがるようなことはなく、また高校入学ころからは家人との接触も積極的に避ける傾向がみえてきたとし、これら家庭の内外における外部との遮断を、被告人の自閉、嫌人、孤立傾向の著明化であると指摘するとともに、外部との遮断は、分裂病質における自閉では、精神活動は空虚であるが、精神病質では、行動に向つての準備のための空想状態であつて、被告人の場合はこの後者に該当し、且つ性格変化は年今期による影響を無視することはできないとの見地に立つて、被告人の自閉化、孤立化は、独立して自己の主体性を確立しようとする思春期における精神発達の一過程として考慮されるべき面もあると説明しているものと解せられ、ひつきよう同鑑定は、被告人が外において友人と離れたことをも含めて、その外部との遮断的傾向は、生来の自閉、嫌人の精神病質的性格が、年今期の影響をも受けて、一層顕在化したとしているものと看取されるので、同鑑定が片面的であるとの所論には賛同できない。

しかして被告人は逮捕勾留中は、家庭におけるとは異つて、我執、偏倚な態度はなく、よく環境に順応しているのであるが、拘束により本質的な精神状態の変化がもたらされたものでないことは勿論であり、もし被告人が類破瓜病にせよ精神病に罹患しているとすれば、長期の勾留中には必ず何らかその症状が現れるはずであるのに、それが現れないのは、むしろ精神病質の特徴といわれる環境依存性によるものとみるべきである。

被告人は、既述の如く、予め犯行の場所に見当をつけておき、またできるだけ人目のつかない林の中などへ被害者を連れ込んで犯行を遂げ、現場に証拠物が残らないように意を配り、素早く引き揚げたのである。そして警察の動きをみるために、また捜査陣が強化されたと知れば、一時犯行を中止して時機を待つとともに、犯行の場所も都内から隣接県へと移動し、被害者らに対する脅迫文や警察に対する投書などは、英文または定規を用いて記載して、筆跡鑑定を困難ならしめ、犯行を予告するなどして捜査機関に挑戦し、揶揄しつつ通り魔の犯罪を繰り返したのである。

以上説示したところのほか、東京少年鑑別所より東京家庭裁判所あての昭和四〇年二月五日付鑑定結果通知書中の検査医萱場徳子の精神医学的診断、技官新田健一の心理学的診断及び医師山内雅光の昭和四〇年一月一二日付精神衛生診断書をも併せて考察すれば、被告人は本件各犯行当時において、その性癖、性格がほとんど病的なまで異常なものであつたとはいえ、類破瓜病なる精神病に罹患していたとするにはなお疑いが存し、むしろ無情性、自閉性、粘着性、自己顕示欲性、嗜虐性などの傾向を主徴とする精神病質者であり、その知能は、未成熟であるが、正常で欠陥はなく、意識障害もみられず、結局精神障害により事物の理非を弁識し、これに従つて行動する能力が著しく減退していたとは考えられず、心神耗弱者には該当しなかつたと認めるのを相当とする、それゆえ論旨は理由がない。

弁護人及び検察官双方の各量刑不当の論旨について

弁護人は、本件については一般予防的見地から量刑を考慮することは適当でない。本件は被告人自身の特異な人的条件にかかる特殊な犯行であつて、刑が軽かつたから、他人がこれを真似して、同種の犯罪が繰り返えされるという危険は全くないといつてよい。この意味で本件は一般予防の立場から重罰を科する好事例とはなり得ないと主張する。

よつて検討するに、なるほど本件は被告人の精神病質という特異な人的条件にかかる犯行ではあるが、犯人は自転車に乗つた通り魔であり、攻撃の対象が男児の陰部であるという猟奇的な事件であつて、その刺戟と印象が強烈であるだけに、ひとり精神病質の者に限らず、それ以外の者によつても、意識的にまたは無意識的に、本件と同じような事犯が繰り返えされる危険がないとはいえず、これに対処して一般予防の見地から量刑を考慮する要あるものと思料される。

次に弁護人は、原判決は精神病質者たる被告人の危険性を犯情悪質とみる理由の一つとして挙げたが、その精神病質の点は酌量理由として全く触れていない。同じく精神障害のうちで最も程度の高い心神喪失の場合には全く責任が阻却されてこれを罰せず、その程度の軽い心神耗弱の場合には刑が減軽されるのであるから、心神耗弱にいたらない精神病質による精神障害でも、程度の差はあれ、酌量事情となるべきことは、前二者の立法趣旨に照らし、当然の帰結であるといわなければならないと主張する。

よつて案ずるに、責任能力につき道義的責任論の立場を採り、心神耗弱者を限定責任者とする法制下では、心神耗弱にいたらない精神障害でも、これを酌量事情として取扱うこととなるものと思料されるが、原判決をみるに、原判決が、精神病質者であるにせよその精神障害の点を量刑上被告人に不利に考慮していないことは勿論、むしろこれを有利に斟酌しているものと窺われるのであるが、原判決は、精神病質者たる被告人の危険性を犯情悪質とみる理由の一つとして挙げたので、それとの対比上観念の混同を避けるために右前者を掲記することを省いたに過ぎないものと推認されるのである。そして被告人の嗜虐性等に基づく行為の危険性の面においては、これが量刑上被告人に不利に考慮されるべきことは当然である。

検察官が原判決の量刑が軽きに失するとなし、その理由として掲げる事項のうち、本件がその動機において、偏倚独善的な自己満足を得ようとするものであつて酌量の余地がなく、態様は計画的で、何の罪もない男児の性器等に向けられた傷害であつて冷酷なものであり、結果も重大で一般社会に与えた影響も甚大であるとして具体的に詳述するところは、おおむね正鵠に当り、これに対し特に異議をさしはさむ余地は存しないけれども、被告人に改悛の情が毫もないとする所見には、にわかに賛同できない。被告人はすでに検察官に対し、今回の事件については深く反省していると供述したのであるが、原審及び当審の公判廷においても、また拘置所へ面会にくる両親に対しても、悪いことをしたといつているのである。ただ、被告人が悪いことをしたと述べる場合、心底から切実に悔悟しているのかどうか、表面上把握し難い嫌いがあるかもしれぬが、それは感情の表現がともすれば平板となりがちな精神病質のなせるものと解せられるのであり、被告人に改悛の情が薄いとみることは避けたい。しかし他方精神病質者の性格矯正が困難であり、これには多くの日時を要すべきことも否定し難たいとともに、その矯正、改善は刑罰だけによつてよくその効果を挙げ得るものではなくて、保安処分的措置、医療手当、家庭における保護、指導等がよろしきを得なければならぬことは勿論である。しかしてこの最後の点については、当然のことながら、被告人の父母が、被告人自身のためと社会に対するお詫びとして、被告人が再び罪を犯すことがないように、その精神障害を除去し、正常に復させるために、どんな犠牲をも辞せない覚悟で、熱意を傾けていることが、父母の供述及び弁護人より鑑定人に対する質問のふしふしからも十分に看取されるのである。そして、多少の金員ぐらいで被害弁償ができ得べくもないが、父母は資産を投じ、弁償にも努力を続けたのである。

以上諸般の事情を彼此考慮すれば、原判決の量刑は、少し軽いのではないかとの感がしないでもないが、これを被告人の不利益に変更するまでの要あるものとは認め難く、結局原判決の量刑不当を主張する検察官及び弁護人双方の論旨はいずれも採用できない。

よつて刑事訴訟法第三九六条により本件各控訴を棄却し、当審における訴訟費用は同法第一八一条第一項本文により全部被告人に負担させることとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 樋口勝 関重夫 金末和雄)

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